昭和53年12月29日 朝の御理解
御理解 第51節 「天地の間に住む人間は神の氏子。身の上痛み病気あっては、家業できがたし。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上安全のこと何なりとも、実意をもって願え。」
ご利益を受けるという宗教が程度が低いとか、本当な信心じゃないとかという人達が聞いたら、まぁびっくり仰天する御理解だと思うですね。人間身の上の事だけではない、牛馬の事に至るまでもと、こう氏子の身の上の事も何なりとも願えと仰っておられるのですからね。それが願うて聞き届けて下さる神様だ。天地の間に住む人間は皆んな神の氏子としての、神様の思いと私共がいわゆる親神様として仰ぎ又は慕わしてもらう。ちょうど親が子にもうそこには理屈はない。ただ縋る。ただ親に頼む。
そういう見地から御道の信心が説かれてありますから。宗教というものはそんなに病気治しの事やら、災難避けの事やらね。例えばいわゆるご利益と言う様な事が伴うたり、願うたりする宗教は、それは本当の宗教じゃないという人達が聞いたら、もうこれを見ただけでも金光教は程度が低いと言うに違いはないですね。けれども又それを反対に考えますとね、御道の信心ほど言うならば、もう人間がする宗教だと。伊達や道楽でするのじゃない。もう切実に願われる神様。
又はそれを願われる事を喜びとされる神様。願い願われる。そこに私は御道の信心の、まぁまっ躍如たるものを感じます。だからもう金光教はねこれが看板でなからなきゃいけない。ところが最近の金光教ではそれを看板にしようとしない。おかげ話はいかんというように、だんだんまぁそのうそれを高尚になって来た、高度になって来たと言う様な考え、間違った考え方をしておる人達が段々増えてきた。だからその言うなら奇跡と言った様な、もうおかげが段々もう本当に影を潜めてしまったような感じがする。
と言うてですんならば神様と通う程しのおかげというのがね、通わなければならないという事だ。只そんなら自分の我情我欲だけで願う頼むというのではなくて、いわゆるちょっとここにその実意をもってとこう、何なりとも実意を持って願えとこう仰っておられる。実意という事がです神様に通うのです。だからお互いのその信心の内容というものがね、はたして実意があるやらないやらよう思うて見なきゃいけませんよ。合楽ではこれは誰が言うともなくもう一つの合楽の御流儀になって来た。
朝の御祈念を頂く時には皆カバン下げてみえて、教典を出して筆記道具を出して、ノートを出してもうこんな教会はどこにでんないです。中に熱心な例えば御信者がおって、お説教なんかの時はメモすると言う様なてんこはあっても、朝毎朝の御理解にこうしてもうちょっと、今から勉強させてもらうという姿勢を作って御理解を頂かれると言う様なところは、私はまだ見た事も聞いた事もない。これはまぁ合楽だけのもんです。そすともう一つはこの御初穂。
皆さんあれは内容はそれはほんの真心が、ですから僅かではありましょうけれども、家族中だけではない、従業員だけの事ではない、もう自分の関わりのある、はぁあの人はと思う人の事を全部お届けをされるという流儀がありますね合楽には。こんなのも珍しいです。一人で言うならば二十枚も二十数枚も、あのうお届けをなさる方があります。これはやっぱり合楽のまぁこれは独自な一つの、まぁ流儀のようなもんじゃないでしょうか。ところが最近それをまぁ一つに纏めて。
そして御初穂一つでどうぞ土の信心をさせて下さいと言った様に何か書いて、そしてあの気が済んでおるという人達も、ここ4、5日とくに目立ってあるんです何人かね。これで実意を持って願う事になるだろうかと私思う。自分の心に例えば子供が五人おるなら、五人の子供の名前を書く度にね、その御初穂を入れる度に、はぁ甲も乙も丙もとこう祈り思いをかけさせてもろうてお取次ぎを願う。またお届けをさせて頂く方も、それを一人ひとり、やっぱり綿密にお届け帳に書いてお届けをする。
そこではぁ今日も家族中の事もお願いが出けたと、まぁ一つの安らぎと言う様なものが出けて来る。誰かが注意をしてそりゃもう破れてから、もう硬貨が半分出かかっとるでん何でん平気でここに持ってきてから、こうこうして扱いよると下にすとんすとん落つるごたっとにでん入れちからお供えをする方がある。言うならばもうそれがマンネリになってしまっておる。誰かが注意を若ししたとするならばです、そういう言うならばマンネリになったような事ではいけないよといったのだろうとこう思う。
いわゆる今日の御理解。そうせずにはおれない内容を持ちながら、そこに実意を欠いてしまっておる。だからそこのところを注意をしたなら注意をされたのじゃなかろうかとこう思う。光昭先生のお話を聞いてこうこうだったという人もある。なら光昭その光昭自身が毎日やはりやっぱ5、6体の御神米を綿密に、それこそ細々と色々お届けを書いて出しておる。だから彼が言っておるその内容に触れきらずに、ただ形だけそして楽になったとこう言う。これは私はもう実意を丸々欠いでしまっておる。
そういうする人達がアンタこの頃はお初穂いっちょんして、内容は同じですよね。それをこまくしないだけの事で引っかからんのち。もう私はいっちょん引っかからん。私はどうも引っかかるという人が段々出けて来た。昨日もたまたまその話が昨日の竹葉会に出たんです。昨日高橋さんがここでお届けをされて、そういうそのあれその高橋さんからも沢山、それこそもう従業員から親戚中の事のお届けまでなさいますからね、それは面倒臭くないからもうそげな風、どげなもんだろうかというお伺いがあった。
それで私はこういう話を高橋さんにさせて頂いた。時の教管までなさった泉乙三という、もう学徳、霊徳、神徳に触れられたと言われる、大変お徳の高い先生がおられた。もうその当時に金光教のこの御霊観ですね。というのはこんなに御霊様、神様と言うてお祭りをするもんじゃない、もう天地に返ってるのだから、天地金乃神様と合祠するべきだという事を、もう非常に強調された先生なんです。面倒臭くないですね。また事実私もそれで良いと思うですね本当は。
天地の親神様の中にかえって、天地にかえって行くんだから、もうお社はいっちょで良い、金光大神も天地金乃神様も御霊様も、言うならば天地金乃神生神金光大神、言うならばうからやからの、御霊様と言うて拝んでいいんだ。包含する方が本当だと、言う説を立てられてそれを強調された。かと言うて今度はなら先生が、いよいよ自分がその霊祭をなさる時には、もうそれこそもう生きておる者に、接するごとしなさったそうです。ここでもそうです。
私は現在の御霊観私から言うならば、その乙三先生のそれと同んじような、まぁ良く似た考え方なんです。かと言うてなら私がなら御霊様のお祭りをさせて頂く時にゃ、もうそれこそお茶が好きな方にはお茶、甘い物が好きな方には甘い。お酒が好きな方には、わざわざ燗酒にして、それこそあの、お神酒の臭いがぷんぷんするようなのを霊前に備えて、私はお祭りをします。だからなるほど御初穂は一つで結構。
例えばならどうぞなら土の心にならせて下さいと言うて、もう本当に土の心になりきっておる人なら、もうお供えなんかいらんです。お取次ぎを願う必要ないです。土の心なら土の心なりきってもおらん者が、例えば何々と自分だけの名前でお届けをして、それで気が済んでおると言うならば、こげな横着な考え方。いやいや今まで沢山お供えをしよった、名前を書いてしよったのは、いかに実意がなかったかという事を、物語るような事だと思うんですよ。
昨日その事を三橋先生が話しておりましたが、私はどうも引っかかる。引っかかって本当だと私が申しました。例えば御霊様を神様と一緒に合祀する。それで全然ひっかからんくらいの、素晴らしい信心が生まれたらそれでいいのだと。けれどもやはりなら親の御霊、兄弟の御霊、自分の身内の御霊。私で言うならばならここで私のね手塩にかけた、御信者の御霊、言う様な御霊達のためには、そこに一つの情感のようなものが交流する。情感がそこに入って来る。
はぁあの人は甘い物が好きじゃったからというて、甘い物を用意しよるともう用意しながら感動が湧いて来る。その感動が御霊に通うのだと私は信じておる。土の心にならせて下さい何々そして息子んこつも、孫んこつもお願いもせずに引っかからんて言うなら、これはぁちょっと大変な間違いな考え方だなと。それは本当なんですそれの方が。けれども、その本当のところまで行ってないのだから。例えば今日あたりのように、それこそ牛馬の事に至るまで、猫やら犬やらの事を願われる方は。
猫のね呼び名が玉ちゃんちいうなら、玉ちゃんというお届けをしてから、お届けをする人があります。はち公という犬ならはち公という犬の名前を書いて、お願いをなさる人があります。またはこの御教えはそれを言っておられるんです。但しねそれでもそれをただそれこそ御初穂袋が破れておろうが、毎日同んなじもんにずっとこうこうやって入れて、こうするしこお供えしたごと積りだけでおってからね、実意も何ぁんもない言うならば、お供えであるならば。
これは一つここにねやはりそういう自分の考え方の、実意のなさというものをもう一遍改めて、そしてもう一遍元に戻して子供達の事も孫達の事も、また自分のあの人の事を願わんならん事も、勿論それこそフレッシュというかね新鮮なというか。神様に通うですね、神様に通う言うならばお初穂に、改め直さなければいけんのじゃなかろうか。いやそこももう一遍超越してねそれこそ御霊様を天地の親神様と一緒に合祠して一緒に拝める。そういう本当なものが本当な事として、自分の心の中に頂けた時には。
もうそんな必要はない。そういう話を昨日は私は高橋さんにさせて頂いた事でした。だからアンタの心の中にですね、もうその一本立てで良いだけの信心が出けたらそれで良いだろうけども、面倒臭いだろうけれどもね。それになら実意を持って従業員の事も一人ひとり、ご親戚の事の一人ひとりの上の事を願われる。それが毎日もうマンネリになって、癖になって、それがねそれこそ御初穂袋が汚れとろうが、もう破れてからその漏るごつなっとろうが平気でお供えするっちなったら、もうこれはつまらんばいち私。
そこんところを今度合楽の人達は分からせて頂く事のための、何かそういう一つの空気があるということはね、改めなければいけないなと言う様な事ですけども、さぁそこにも求められるものは、なら何なりとも何十人の分でも良いからね御初穂にですよ。一つの御初穂に、なら五人も十人も書いてある人がありますよ。それでいいんだ。けれどもその一人ひとりの、ならにですなら実意を込めたもの。実意があるやいなやという事を、確かめなければいけない。実意とは神様に通う心だということ。
なら実意とは我が侭とか横着とか何やとかと、言う風に色々言われますけれど、私は今日はもう神様に通う心が実意だと思うんです。それを私は今日は情感という風に聞いて頂いた。御霊様をわざわざ別にこうしなくても、天地の親神様と一緒に合祠する、するべきだと。それが金光教的だ。泉乙三先生の説に私も共鳴します。それでいいと思う。けどそこまでに至るまでにです、なら泉乙三先生自身がです、さぁいよいよ御霊様のお祭りをなさるという時には、もうそれこそ一人ひとりの御霊にですね。
それこそ生きた者に物を言う如くに、お祝詞だけでも奏上されたそうだし、お供え一つひとつの上にも思いを込めたと。なら光昭が例えばそのうそういう、もうとにかくアンタ一人の信心が出来さえすりゃ、もうそれで全て神様がお受けして下さるんだよと。確かにそうだと思うんですよ。だからそんならそう言うておるなら光昭が、毎日やはり自分が頂く、恐らく給料だけでは足りないでしょう。足りない時にはそれこそもう切手のようなものまでお供え致します。
御繰り合わせを願う御初穂が無くなったと言うて願う。願うともう不思議にやっぱおかげを頂いておるです。欠かす事もない。しかも一つひとつの御初穂に綿密に色々な願いをちゃんと書いてある。光昭も本当の事がだいたい内容として分かっておるけれども、なら、自分のものにはならなりきっていないところに、お取次ぎを頂いて願わずにはおれないものがある訳なんだ。それを昨日三橋先生じゃないけども、私もそげな風に聞いちから、一つにしたけんまぁ楽になったね。けれどもどうも引っかかる。
〇〇さんアンタ引っかからんのち。私はいっちょん引っかからんち仰った。あぁ楽になってよかち。だから今までの言うならば、御初穂の内容というものがいかに実意がない。なるほどこれでは十人ならお届けをしても、その十人の上におかげになっとらんはずだという事が分かる訳。いかに自分が実意がなかったか。はぁとなら今日の私の話を聞いて改めて元に返した。形の上は元に返しただけだけれども、その一人ひとりの上に思いが込められ、情感が通うような思いが込められて、初めてまぁ実意。
こういう流儀は合楽の流儀の本当に素晴らしい流儀だと思うんです。こんな所はないですかつて。だからそれがねもうマンネリ。実意を欠いてからの事であったら、それはもう駄目です。折角お供えするならそれが通わにゃいかんでしょうが。だから実意と今日私は実意という事は神様に通うという。神様が受けて下さるという。それには信心が深められた上にも深められて行かんとです、その思いがね思いが湧いて来ないんです。
昨日研修の時に、ここの研修生の方達の発表を2、3人聞かせて頂いて、あんまり見事にもう纏めてあったけん、もうその2、3人まででもうよかばいと言うて、あのう皆んなの発表を聞かなかったんですけども。中に梶原先生があの発表してました。昨日はあのう信心をすれば誰でも神徳が受けられるということでしたね。けどもその神徳が受けられるという、神徳というのは今まで私どもが思うて来た神徳は、あれは言うなら国鉄の例を取りましたね。今度沢山国鉄にあのお金を払います。
御本部参拝の度にまぁ国鉄のそれに、まぁ奉賛した訳になる。したら国鉄からその事のお礼の感謝状と、その記念品を贈ってきてる訳ですね。だから、言うならそういう感謝状的なものを私どもがお徳と思うて来た。さぁご普請が始まる、沢山いっちょ今度は一徳受けようと言うてお供えでもする。それで徳を受けたかのように言うたり思うたりして来た。それはそうじゃないて。
それは国鉄さんが感謝状と記念品を贈ったようなおかげは頂けても、それはなら神徳というのはあの世にも持って行け、この世にも残しておけるというほどしのもんじゃなからにゃならないという事。だからあの御神徳というのは、私も頂いておるのじゃないけれども、私は神様から借りておる。これを借り続けたら一生が、借り続けたら私のものになるんだと言う様に、非常にデリケートなもんなんだと。だからいつなら取り上げられりゃまた実際分からないんだと。
という御理解でしたですね、昨日の御理解。それをね梶原先生があの一番始めの、いわゆるそのう書き出しの所にね、神徳は借り物だという事を一番に書いとるです。神徳というのは借り物だと。もう今まで表現した事のない、昨日そういう御理解を私はしておるけれどものっけからです、神徳とは借り物だという表現が私は素晴らしいと言うて言うた事でした。そしてそれを一生借り続けた時に、その神徳が自分の物になるんだという説明を、後から付けているんです。もう人の心をパッとつかんで離さないでしょう。
ならそういう言葉と言った様なものは、信心をだんだん深めて行かんと、人の心にこのう触れて行く入って行く様なその、ものになって来ないんです。信心が深められてね一つの実意を持ってという事は、ある場合は情感の場合もあるでしょう。もう真心の言うならば生粋という心もそこに現れてくるでしょう。そこになら神様の心を捉えて離さないような、言うなら通うもの。例えそれが百円の御初穂であろうがです、孫の誰々の名前を書かせて頂く時にです、孫に通う情感がそのまま神様に通う。
それで初めてなら孫のお届けをしたという事になるのじゃないでしょうか。それが毎日毎日同なぁし事をもうね何ちゃでしょうか。それがその紋切り型にいわゆるなってはならないという事をです、私は誰か注意したなら注意したんじゃなかろうか。それを誰かがならこれがほんなこつばのちゅうごと言うたけん、皆んなそれになしてしもうたと。所が引っ掛りだした。所が引っ掛らんともおる、と言った様な事らしいですけれども、これは私はもう一遍形は同じであっても、内容を変えて元に戻すべきだと私は思うです。
昨日お話の中にあのう山頭火という、あのう禅のお坊さんで殆ど半生を、あのいわゆるさすらいですね、流浪の旅から旅に終わった人の句を読んで、昨日私お話をした事ですけれども。この人にはこうリズムがない調子がない。普通で言うそのう全然。ところがそのう、リズムがないのにも関わらずもうそれこそ人の心を捉えて、その離さないと言った様な、あのう素晴らしい言葉が使ってある訳。ちょっと読んでみましょうかねいっちょ二つ。私がここへ書いとるとを。
「山の静けさは白い花」。これがこの人の句なんです。「分け入っても、分け入っても青い山」。「しとど濡れて、これは道しるべの石」。本当に何かそのもう百年も百五十年も経ったような、道しるべの石が立ってますよねこう。もうそれがもうしとど濡れてもう本当にその情感というものがこう通うて来るでしょうが、たったそれだけの言葉の中に。だから私共が実意というのは、そのいわゆる今日は私は神様に通うというものは、信心を深めて深めて、そっからホッと自分の心の中から起こって来る感興というか、情感というものが神様に通うんです。
それが毎日同じような事になっとったら、通うはずはないでしょうもん。そこを私は今度ひとつ皆さんに分かって頂きたいと「木の葉は降る降る歩きつめると」「踏みわけて萩よすすきよ」それだけ俳句らしくない俳句なんだけれども。もうとにかく人の心を捉えて離さない「まったく雲がない傘をぬきたり」「雨降るふるさとは裸足で歩く」というもうこの句なんかはもう、本当にどんこんもうこちらが何か田舎のね、あの故郷の地を裸足で歩いとる時の感じがこちらへ伝わって来るでしょうが。
なら簡単にこれが出けるようになったんじゃない、もう深めた上にも深めて。言うなら修行がそこに伴うて、こういう表現が出ける様になっておるのが、私山頭火の句だとこう思うんです。だからお互いの信心も深めて行けば深めて行く程楽になる事。簡単になる事。その簡単になる事が本当に神様の心をつかんで、離さない程しのものがある様になったらそれで良い。けれどもここに私はその今までの在り方の中に、反省しなければならないところは反省。
はぁ今まで沢山の今までしょったが、実感も何ぁんもなかったと。まぁいっちょいっちょ入るるとがせからしかった。そしてほんに破れとる事もいっちょん気にかかっとらん。ちょいと書き直しゃどこにどうあるかと言う様なところを、平気で、あれじゃあ神様が受けて下さらなかったはずだ。それで今度は一つになったら楽になった。これでようやくおかげを頂くようになった。ところがそれが引っ掛りだした。
今までの信心の内容というものから、現在の自分の信心の内容が、もう本当にそれそのあの高度なものになって行くならばそれでいいけれども。本当にその人が子供の事も孫の事も思わんならばです。もう私の信心ひとつで、もういやあおかげになるという事を確信が出ける。言うならば、土の心にならせて下さいという、まだ願っておる過程であるとすんならまだ駄目だ。出来る事なかて。
もう本当に土の心に、水の心に徹する事が出けて、自分の物になりきってしまった時には、もうそれこそここに言うならば大坪なら大坪だけで、もうアンタの感じておる事の上に、おかげが一切現れてくるだろうという事になる訳です。だからお互いのその信心のね、それこそ実意を持ってどういう事でも願え。願えるという事が金光教の信心だし、その願える願うからには、それを実意を持って願えと仰る。教祖の実意の追及を、まぁさせて頂いたんですよね。
どうぞ。